木苺と猿の日記。
ここにある文章全体
ブログというのでもなく、
忘れるばかりの日々や、
おもいつき、メモとして自分用に残すために
作ったものなので、人が読んで面白い訳でも
結論のある文章であったりもしない。
ただ、退屈な話。
これもまた、退屈な日常の話しであるが、
コロナ喧騒の始まったあたりから
この日常の非日常性、
この特異な日々、機微を記録しようとは思うのに
どうも、書いたり、控えたりができない...
ただ自分が何かを書くということを回想してみると
これは今にはじまったことでもなく、
長い時間をかけて失われた力だったりする。
自分の名前を明記した服やモノをつくる時期はまだいいとして
朝から終電まで働くことが長い時間が経ったころ、
気づくと失われた習慣で、
書くこと、書けるもの、書く量は
読書時間や、ものごとを一定時間考える時間量と当然比例していて
目の前の仕事をこなすだけで終わる1日、1年をつづけていると
書く時間だけではなく、書く内容も失われていく。
大学の卒業前後、30歳近く年上のN氏に
三軒茶屋のさらに年配の女性がきりもりする小料理屋で
「 いわかわ、この世で唯一、平等なものは何か?」
と聞かれたことがあった。
世界はあらゆることが不平等であり、
生れや育ち、国や性別も、生まれる段階で選べなければ、学歴、男女にも格差がある。
自分が想い浮かぶ全ての事象に不平等さがあり、一体、何に平等さがあるんだろう...
暫く、考えていても答えがでない私に
「時間だ」と、N氏はいった。
続けて「今この瞬間、時間だけが唯一、平等にあたえられたもので、
労働とは その限られた自分の時間を 社会や会社に売ることを云う」
というような話しをしていた。
睡眠時間以外、睡眠もままならない1日のほぼ全てを、安く売り続ける...
そういった時間のなかにも、当然、お金や時給換算できないことがある一方で、
言語を使う、書く、とかの能力は
猿目と霊長類の決定的な違い、といわれるが、
そこさえ失われてきた自分は、すでに霊長類でもない気もする。
木苺の枝がいけられた部屋に住む猿の日々はただ過ぎていく。
4月のおわり肌寒い日がつづく
2020年、4月25日、土曜日。
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