ひかりの影。

夜の帳にようやくついた 門から見える影は漆黒で

電球の黄色い光は 密集した様々な植物群を照らし、野外の蛇行した通路に

歪つな影を落としている。奥行きのある影絵箱のような場所にいくつもの店が並ぶ。



何年も前に

その場所に昼間に1度訪れたことを約束をしてから思いだした。


プランツを世界中に出向いては収集、輸入するという仕事が存在することを

渋谷ヒカリエの即売をかねた展覧会のDMを見たのは会期最終日の数日後で

実際に鉢植えを買うことはできなかった。

この場所のことも書かれていて、それが最初の訪問のきっかけだったことも後からおもいだした。


2回目の訪問日は

6月でも日中30℃近くだったが日が傾くにつれ丁度良い、という気候で


並んだ店の前を進んでいくと、コロナ自粛後の

どことなく、晴れやかに見える顔つきの人びとが集まり

食事をしているというより、この時間を食しているように見えた。


ただ人と会食する日常を3ヶ月禁じられただけで

その時間が異常に長く感じられること、

希望する対面、移動が叶わないだけで圧倒的な抑圧を感じることを、

おのおのが知り、抑圧のほころびに安堵する時間。


約束の4人のうち、3人はほぼ定刻19時に席につき

残り1人は、1時間半ほどしか滞在できなかったが

直接顔を見れただけで満足、そういう顔つきで解散となった。


木村敏の『時間と自己』を読んだ20年前、

「時間」にある意識、自我、記憶について

「時間」という考えてみても掴みきれないものを

精神科の臨床から見出し、新たな時間を出現させた彼の名著は

感心し、腑に落ちた側面があったが、

一層『時間とは何か』と気にかかるようになった。

「時間」をテーマにした書物は非常に多い。それだけ時間は多様なのだ。


今また COVID-19が、ふいに我々に時間においても、別のベクトル、

別の感覚や知覚を追加したことは、世界や経済に脅威と鮮烈な打撃を与えると同時に

日常の時間の尺度が、いつでも1つの要因で簡単に、全く違うものに変容することを教えた。


そして今日も結局、

何十年と片隅にある「時間」を自分は全く知らなかったのだという

想いがまた、店々の光と、道に差し込む深い影に吸い込まれるように消えていくのだ。















影のデザイン

影のしつらえ